【東大サークル飲酒死亡事故】人は事件の当事者になって初めて事の重大さが分かる愚かな生き物だと思う
平成24年に起きた東京大学のテニスサークルの飲み会で起きた急性アルコール中毒による死亡事故について新たな展開がありました。亡くなった高原滉さん(21)の両親が合コンのメンバー21人に対し、計1億6900万円の損害賠償を求める訴えを東京地裁に起こしたとのことです。
この件に関して色々思うことがあったので考察を書こうと思います。
まず、亡くなった高原滉さんの親御さんは無念でしょうし、相手方を裁判に訴えたくなる気持ちは分かります。その行動は正しいと思います。けど、それとは別に考えなくてはならないことがあると思うんです。
被害者はコンパ長であり合コンの中心人物だった
亡くなった高原滉さんは問題のコンパでコンパ長を務めていて、いわゆるコンパの中心人物だったことが明らかになっています。役割柄、場を盛り上げる為に他のメンバーよりも多くの酒を飲んだことも明らかになっていて、ご両親はそれが原因で亡くなったと主張しています。
つまり、リーダーとしての一種の『責任感』が彼を急性アルコール中毒に追い込んだとご両親は主張しているわけですが、むしろリーダーだからこそ彼自身が無茶な飲酒をメンバーたちに抑制させるべきだったと思うんですよね。
加害者たちは本当に言い逃れをしているのか?
メンバーたちは「自分も酒につぶれていた」などと主張し、この責任逃れとも言えるこの発言がご両親が訴訟を起こす引き金になったとも言われています。
しかし、「自分も酒につぶれていた」という主張は責任逃れというより、「自分も被害者と同じ立場だった」と主張したのだと思います。彼らもまた一歩間違えば亡くなっていたわけですからね。生存か死亡かという結果の違いは大きいですが、やっていること自体は被害者も加害者も同じなんですよね。
自分が被害者・加害者になって初めて事の重大さが分かる
悪く言ってしまえば、たまたまハズレくじを引いてしまっただけなんですよね。だから亡くなった。被害者含め22人のメンバーのモラル・人間性などに大差があったとは思いません。気の合う仲間だったでしょうからね。もし、違うメンバーが亡くなっていた場合、被害者と加害者の立場が入れ替わるだけで結局同じ様なやり取りが行われていたはずです。
結局の所、事の重大さを”本当に”理解するには被害者・加害者にならないと理解できないと思うんですよね。
例えば飲酒運転。厚生労働省の調査によると31.5%もの男性が飲酒運転をした経験があるという驚きの結果が出ています。飲酒運転の罰則が厳しいことは多くの人が知っているはずですが、「自分は大丈夫だろう」と思って安易にやってしまうんですよね。そして、検挙されて初めて事の重大さに気付くわけです。
世間の意識を変える為にも被害者が訴えを起こすことは重要
今回の事故・事件は被害者・加害者双方に同等の責任があると私は考えます。と言うと「コンパの中心人物でもあった被害者遺族が訴訟を起こす権利があるのか?」という問題が出てきますが、被害者は積極的に訴訟すべきだと思います。
再度言いますが、本当の事の重大さは被害者にならないと分からないわけです。被害者にしか分からない感覚、被害者だからこそ言える言葉がありますよね。悪く言えば「棚上げ」ですが、それでも訴訟を起こすことは、事の重大さを世間に周知させることになり、こういった問題の抑止に繋がっていくと思います。