【香港民主化デモ】周庭の逮捕は妥当である
先日、香港国家安全維持法に違反したとして香港の民主化の女神として知られている周庭さんが逮捕されました。
これについて、SNS上に限らず政治家も懸念を示しているようです。
しかし、私は周庭さんの逮捕は妥当だと思います。今回はその理由についてお話していきます。
周庭の逮捕が妥当である理由
私が周庭さんの逮捕が妥当であると思う理由ですが、暴力行為を容認し、デモの中心人物であることは事実だからです。
彼女自身は暴力を働いたわけではありませんが、デモ隊の暴力を黙認するどころか、情報を切り取り、まるで被害者であるかのような主張を繰り返してきました。
これは事態を扇動していることになりますし、多くの犠牲者を出したわけですから香港国家安全維持法に明確に違反していると考えることが出来ます。
そもそも、彼女のやっている事は中国に限らず日本や米国でも逮捕されます。法治国家だからこその逮捕なんです。あれだけの犠牲を出したのに、騒動の中心人物が逮捕されなければ法治国家とは言えません。
ここまで事態を悪化させたのはデモ隊が引き際を誤ったから
今回の騒動の引き金になったのは2019年『逃亡犯条例改正案』です。
これにより多くの市民が危機感を覚え、大規模なデモが行われることになります。そして、デモ隊の一部が暴徒化して火炎瓶や投石による暴力、建物の破壊が行われるまでになりました。
そして、香港政府はデモ隊の要求を受け入れ逃亡犯条例改正案を撤回しました。
当初のデモ隊の要求はこの1つだけでしたが、デモ隊の要求はエスカレートして5つの要求を飲むまでデモは止めないと主張し始めます。
昨日、大雨の中、170万人が集まりました。
香港市民の5つの要求:
1. 改正案の完全撤回
2. 警察と政府の、市民活動を「暴動」とする見解の撤回
3. デモ参加者の逮捕、起訴の中止
4. 警察の暴力的制圧の責任追及と外部調査実施
5. 林鄭月娥の辞任と民主的選挙の実現写真:apple daily, initium media pic.twitter.com/LcgZPP1kQ4
— Agnes Chow 周庭 (@chowtingagnes) August 19, 2019
1つ目の要求は達成しましたが、2、3、4の要求は正直言って無理難題すぎると思います。こんな要求中国じゃなくても日本や米国だって受け入れません。暴力や破壊行為を容認出来るわけがないですから。
デモ隊の一部がテロまがいの事をしたのは事実なのに、「逮捕するな!訴えるな!」と主張するのはおかしいですし、それなのに警察側の暴力には責任追及するのは違和感しかありません。
「私たちは罪を受け入れます。だから警察も罪を受け入れてください」という主張なら分かりますが、自分たちのしたことを棚上げして相手を批判するのは疑問でしかないんですよね。
無理難題な要求をせず当初の要求を達成した時点で引いておけば、ここまで事態が悪化することは無かったはずです。
こうなってしまったのは引き際を誤ったデモ隊に責任があります。
香港の民主化は事実上不可能である理由
悲しい現実ですが、いずれにしろ香港は中国に取り込まれることになります。というよりも元々香港は中国の一部です。
『一国二制度』と『2047年問題』をご存知でしょうか?
1997年まで香港はイギリス領だったので、イギリスのルールに沿って生活していたわけです。急に中国のルールに変えられても住民は対応できません。そこで『一国二制度』が取り入れられ、香港は独自のルールで運用されていくことになるわけです。
そして、『一国二制度』の期限が2047年までであり、それが『2047年問題』です。
2047年以降は香港は完全に中国の一部となります。政治も完全に中国の他の地域と同じように行われます。
これは中国が勝手に決めた事ではなく、イギリスと協議して決めた事なんです。
香港市民の感情的には納得がいかないかも知れませんが、中国としては約束に則った正当なものなわけです。
なので、香港の民主化は出来たとしても2047年までの期限付きであり、それ以降は中国によって統一されることになりますから、事実上民主化は出来ないということになるわけです。
正直、民主化に夢を見過ぎている
正直、周庭さんは民主主義に夢を見過ぎていると思います。
確かに、中国では言論の自由がありません。特に、政治に関することに口出しすれば制裁を受けます。
しかし、「中国本土の人たちの生活が不自由か?」と問われたらそうとは断言できません。中国は経済的に発展していてゆとりある生活をしている人は多いですし、不服なら海外へ移住する権利もあります。
そもそも、民主主義国家でもルールはあります。ルールに違反すれば罰を受けます。何もかも自由というわけでは無いんですよね。当然、香港で起きている暴動も許されません。
『自由の対象』が異なるだけで、どの国であれ何らかの不自由を感じながら生きているのです。