【川崎無差別殺人】「一人で死ね」を批判したら犯人擁護?ふざけるな!
28日の朝、川崎市で無差別殺人事件が起こり、残念なことに18人の犠牲者が出てしまいました。
殺人はいかなる理由があっても許されるものではありませんし、無差別殺人なら尚更です。
世論の怒りはおさまらず、犯人に向けて「一人で死ね!」という言葉を投げかける人が多数あらわれました。
そして、それを危惧する記事がYahooに掲載されます。
Yahoo!トップに川崎殺傷事件「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい、という記事を掲載いただきました。死ぬべき人間がいるかのような暴力的な言葉は社会への絶望感や分断を招きます。次の凶行を生まないためにお読みいただけたらと思います。 https://t.co/PEmNMJH3pF
— 藤田孝典 (@fujitatakanori) 2019年5月28日
この記事に対して「被害者の気持ちを考えていない」とか「犯人を擁護している!」というような批判で溢れかえっているんですよね。
本当に批判のように被害者の気持ちを考えていないのでしょうか? 犯人を擁護しているのでしょうか?
これについて私の意見をまとめました。
「一人で死ね」を批判する事は被害者の為でもある
この記事の著者は同じような事件を起こさないように警鐘を鳴らしただけです。
「一人で死ね」という言葉が世の中に広まれば、社会に絶望して今回の様な事件を再び引き起こしかねないわけです。
それは被害者の為でもあるはずです。
なぜなら、被害者以上に「今回の様な悲惨な事件は起きてほしくない…」と思っている人はいないはずだからです。
なので、「被害者の気持ちを考えていない」とか「犯人を擁護している!」という指摘は全くの見当違いだという事です。
加害者目線で物事を考えて一体何が悪いのか?
そもそも、加害者目線で物ごとを考えてはいけないのでしょうか?
無差別殺人の犯人はたいてい社会的弱者です。
過去にイジメられたりパワハラ、セクハラの被害に遭った経験のある人は、社会的弱者である犯人に自分自身の経験を投影してしまうと思うんですよね。
そういった経験がない人にとっては分からない感覚なのかも知れません。
もちろん、「被害者にも落ち度がある」みたいな発言は到底認められるわけがありませんが、犯人の心情を考えるのは被害者を傷つける行為ではないと思います。
そもそも「一人で死ね!」は被害者の気持ちを考えた言葉ではない。これで傷付く人もいる
そもそも「一人で死ね!」というのは、その人の怒りが爆発したことにより発せられた言葉であり、被害者の気持ちに寄り添って発せられたわけではないのです。
よく考えてみてください。
被害者遺族が「一緒に”一人で死ね”と言って欲しい」などと思っている思いますか?
遺族はただただ悲しさに打ちひしがれているだけです。
言うなら「一人で死ね」ではなく、被害者を支える言葉であるべきです。
それに、「一人で死ね」という言葉を聞いたら、学校でイジメ被害に遭っている子達も「誰も助けてくれないんだな…」と絶望すると思います。
ですから、犯人に対する怒りが収まらなくとも、「一人で死ね」は決して言ってはならない言葉なのです。